2020-12-15

「鬼滅」で蘇る集合体意識

先日、「鬼滅の刃」が集合体意識を呼び覚ます、というような内容の記事を書きましたが、その中で、「初詣や祭りも、そのための日本の伝統の一つ」と述べた部分がありましたが、「初詣」が定着したのは、明治中期以降です。

それを伝統と言っていいのか、微妙なところではあったので、一応報告しておきます。

この「集合体意識」というのはなかなか奥が深いものでして、例えば、昨日喧嘩した人も、共通の敵ができると、急に仲間になることがあります。

問題は、共通の”何か”を”同時に”持つことであり、それが共鳴すれば、敵は仲間に変わります。

逆に、仲間だった者同士が、一瞬で敵対関係になることもあります。

根本的に価値観が違う場合や、時間の流れとともにズレてくることもあるでしょう。

それでも、新たに”共通の敵”が生まれると、また急に仲間に戻ることもあります。

人間というのもは本来一人で、集団で生活する本能はあったとしても、独りを完結できた人は最強だという説もあるぐらいです。

コロナ禍において、何かと孤独になることもあるかと思いますが、人間は元来独りなんです。

一般生活における敵や味方というのは、共通の敵に対して相対的な価値基準で相互がなんとなく認め合ってるような曖昧なものであり、そもそも実態は無いんです。

そんな契約も無ければ、口約束すらありません。

「おい、俺、お前の仲間だよな」

「うん、そうだよ」

こんな会話も無く、ただなんとなく「そうじゃないかな」ぐらいなものですね。

関係はすぐ終わるか、もしくは、なかなか終わらず何年何十年と続く場合もあります。

「親友」という言葉も曖昧です。

何を持って親友なのか、お互い「親友」と認め合うだけで、安心感が欲しいだけじゃないのか、と思うことがあります。

「親友」でも、関係が壊れる時は一瞬です。それも、たわいの無いことで。

他人との関係というのは、所詮はこんなもんじゃないかと思うんです。

例えば、「味方」と思ってる人を想定してください。

そこに利害は無いでしょうか。必ずあると思います。

何かしらの利害が存在するから「人間関係」が成り立つんです。

金銭的な利害はもちろん、そうでない利害も含め、”何か”が存在します。

話を元に戻しまして、集合体意識について。

「家族」というのは、人間社会が民主主義であるための、基本的な構成単位の最小のものです。

もちろんこれが全てではないですし、家族に変わる別の「家族的存在」と置き換えても良いでしょう。

そこから先は、これまで述べた通り、いつ壊れてもおかしくない、また、いつでも構築される人間関係で、「昨日の敵が今日の味方」となることも日常茶飯事です。

その「家族」を崩壊させ個に分離し、集合体意識をも破壊して国を乗っ取ろうとする敵が存在したのであれば、それを認知した時点で、昨日まで嫌いだった人は、味方になります。

それは国が集合体意識としての家族と同一視され、利害が一致するからではないでしょうか。

これは、伝統の話しでは無く、人類共通の話しです。日本だろうが外国だろうが同じこと。

その共通の敵に対して立ち向かう精神性と肉体的な成長が、伝統的な描写と創造力を掻き立てられる名言(セリフ)とともに描かれたアニメが、

「鬼滅の刃」

なのです。

というわけで、長くなりましたが、本日も「鬼滅推しのネタ」でした。。

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